今回は、アール・ヌーヴォーを代表するグラフィックデザイナー Alfons Maria Mucha(アルフォンス・ミュシャ)をご紹介します。
アルフォンス・ミュシャの生涯
1860年
オーストリア=ハンガリー帝国領モラヴィア(現・チェコ)で生まれる。
中学生の頃
音楽家を志し、教会の聖歌隊員になる。
しかし、声変わりによって美声を失い、音楽家を諦めることに。
当時から絵を得意としており、夏休みには聖歌集の表紙を描いた。
学業不振のため、中学校を中退。
裁判所の書記として働く傍ら、デッサンに励む。
1879年(19歳)
ウィーンに行き、舞台装置などを製作する工房で働く。
1881年(21歳)
最大の取引先である劇場が消失し、経営難のために解雇される。
その後はウィーンを去り、ミクロフで肖像画を描いて生計を立てた。
1883年(23歳)
クーエン・ベラシ伯爵に出会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる。
1885年(25歳)
ミュンヘン美術院に入学。
1888年(28歳)
パリのアカデミー・ジュリアンに入学。
1889年(29歳)
エゴン伯爵の援助が、打ち切りとなる。
1895年(35歳)
19世紀のパリを席巻した女優サラ・ベルナールが主演する戯曲『ジスモンダ』のポスターを手がけ、大きな反響を呼ぶ。
この作品でサラの信頼を獲得し、6年間の専属契約を結んだ。
1896年(36歳)
華麗な装飾と印象的な女性を組み合わせる「ミュシャ様式(ミュシャスタイル)」を確立。
1910年(50歳)
パリで数々の成功を収め、帰郷。
1910〜1928年(50〜68歳)
全20点から成る『スラヴ叙事詩』を制作。
スメタナの『わが祖国』から着想し、スラヴ民族の苦難と栄光の歴史を描いた。
1918年(58歳)
チェコスロバキアが、共和国として独立。
新国家の紙幣や切手などのデザインを行う。
財政難である新国家を慮り、無報酬で請け負った。
1939年(78歳)
侵入してきたドイツ軍により、「絵画がチェコ国民の愛国心を刺激する」という理由で逮捕される。
厳しい尋問が大きな負担となり、死去。
作品の特徴
線の魔術師
流麗な曲線を描くことから、ミュシャは「線の魔術師」と呼ばれました。
ミュシャの作品は日本でも愛され、デザインやイラスト、漫画などの模範となっています。
『みだれ髪』の表紙を描いた藤島武二は、ミュシャの影響を受けたうちの一人です。
浮世絵の影響
当時のフランスでは、日本美術が注目される「ジャポニズム」が流行していました。
芸術家に多大な影響を与えたのが、浮世絵です。
ミュシャは、浮世絵の構図を巧みに取り入れました。
ミュシャの特徴である、華やかな女性、太い輪郭線、平面的な描写、大胆な構図、花鳥風月のような自然をモチーフにした装飾は、浮世絵の美人画と通ずるものがあります。
「美の殿堂」と呼ばれたミュシャのアトリエには、故郷モラヴィアの工芸品や聖像、ロココ風の家具、日本や中国の美術工芸品などが飾られ、多種多様な美がインスピレーションの元となっていました。
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